私が、空手を始めたのは小学四年生でした。もう40年になりますね。
おとなしくて、いじめられっ子で、親はそんな私をどうにか強い子に育てたかったのでしょう。
藁をもすがる思いで、最初に空手を教えてくれた、古賀先生の下に預けてくれました。
もともと何をやらししても不器用で、どんくさくて。。。当然、空手が嫌で嫌でしょうがありませんでした。
古賀先生はとても厳しい先生で、私はよくサボり癖があったものですから、ついに破門されました。
その破門は親の謝罪で、なんとか解けたのですが、なかなか芽が出ず。いじめられ癖も変わらず、このまま中学も過ぎていくのだろうと思っていました。
中学2年生の時でした。ある小さな試合で、いつも練習している親友に偶然勝ったのです。次やったら負けるのでしょうけど、たった一回その試合で勝ったのです。あのときは、相手の技がよく見える。あれはなんだったんでしょう。運命の扉が開いたとしか言えません。
それから、空手がなんとなく面白くなり。少しずつ自信もでてきたことを覚えています。
でも、それから先の試合で、私が活躍したことはほぼないですね。だから、今でも伸び悩んでいる子どもの気持ちは痛いほど分かります。
中学3年の卒団式で、古賀先生が褒めてくれたことは今でも忘れません。
その時、育ててくれた道場に恩返ししたいと強く思いました。
高校になっても練習に顔を出し、後輩達の面倒を見ていました。今考えても下手の極みでしたが、教えることは好きだったみたいですね。
その時、後輩達にはこう言っていました。
「オレみたいな弱い選手になるなよ」
その一念で後輩達に、自分はできないくせに色々アドバイスしていました。中学レベルでしたが、県内でも強い方の道場でした。
「三宅さんのお陰で勝つことができました」
と後輩から感謝されたことは、いまでも私が指導を頑張れる原動力になっています。
24歳くらいでしょうか、なんとなく私が継ぐ流れもできていて、正式に前任の道場を引き継いだ次第です。
それから30年近く代表としてやって参りましたが、今考えると至らないことばかり。悔しさは何度も味わいました。それと同じくらい、出会った子どもたちから感動ももらいました。
武道には、守・破・離と段階がありますが、ついに”離”の段階になり、新しい道を歩むことになった次第です。
しかし、古賀先生への敬愛は変わらずあります。今でも、普通に相談に伺うことが多く、その度、的確なアドバイスをいただいています。
生き方の道標を示してくれるとでもいいましょうか。私がなにを考えているか見抜かれますし。とにかく凄いのです。
古賀先生からのアドバイスで、いろいろな問題を乗り切れたことは数多い反面、時に礼節を欠いたことをしたときは、激しく叱責をうけたこともありました。古賀先生の見識は、私の価値観の大きなところを占めています。
今から10年ほど前に、糸東会との出会いがありました。末吉糸東会の木谷先生(糸東会七段教士)に、たまたまお話しする機会があり、早速練習(しがらなみのない空手好きの集まり)にお誘いしていただきました。
そこに集う先生方は、皆さんとてもお優しく、他会派の私にもいろいろと教えてくださいました。私がどんどん糸東流に魅了されていく、心地よい時間を過ごさせていただきました。
もっとたくさん学びたい、これを生涯かけて追求していきたいと強く思っていきました。
それが糸東会に入会するきっかけとなりました。
当然、古賀先生にも相談に伺い、快く後押しをしてくれました。
「入る以上は一生懸命がんばれ。そして絶対に糸東会を裏切るな」
糸東会に入会するときに、本部では反対意見もあったようです。あたりまえです。どこの馬の骨かわかならい私です。
それを、鹿児島県糸東会の木谷先生、青木先生、大野先生をはじめとする先生方の後押しでなんとか糸東会に入会することができました。先生方の思いを裏切ってはならない。これを常に念頭においてこれからも活動していく所存です。
私の幼い頃を知っている人は、今の私をみて驚かれることでしょう。こんなにも長く空手を続けて来れたのも、私がおとなしく不器用で、いじめられっ子だったからかもしれませんね。
空手をしていなかったら、私はどんな人間に成っていたでしょうか。
いつまでもおとなしくて、姑息で弱くて、なにも個性のない人間だったことでしょう。
出会いが人を変える
私に影響を与えてくれた先生方のように、これからも私と出会った人に良い影響を与えるように
糸東会の名を汚さぬように 責任感を持って邁進していきます。
というように、私は長文のブログを書くことが多いです。
少しでも、三宅がどういう人間かを分かってもらいたい。。。
めんどくさい奴だと思われるかもですが💦
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